学校に行かないという選択し、落ちこぼれだった僕が感じたこと

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僕が受けていた教育とは、子供に学び場を提供し皆一緒に並行して、育て上げる印象があった。

しかし、何か違う!そんな言葉にできない気持ちを小さい頃から違和感として残っていました。成人した現在もです。特に教師の不道徳や、不登校、いじめ問題をニュースなどで拝見していると、改めて子供たちが受ける教育について、考えている僕がいます。

今、変化が必要なのは大人達、教育だと思う。そもそも何十年も改善しない世界っておかしくないですか?

子どもは大人の鏡、子は親の鏡なんていう言葉があるように大人たちがつまらない状況を作っている。または維持していることが根本にあるような気がします。

子どもをどう育てるかを議論する前に大人自身が正しい方向性へ導くことが大切なんだと思うんです。

この正しいとは、人によって解釈もことなるだろうし、個人的な思考に走りがちになると、痛い目を見る。それが今の現代社会なんだろう。

例えば、叱る事を極力やめてほめる育て方というのもあるそうですが、よくよく考えてみると、おかしいです。ほめればいいってもんじゃない。毎日の様に褒められている状態って気持ち悪いです。

僕が可愛いと呼べるぐらい小さい頃は、すぐに親を困らせる悪魔のような存在でした。言われたことが、出来ない。当たり前を無視して、自由にふるまって行動していると、コラー!「モノを壊すじゃない」「約束を破ったりするな」次もやったら、殴るからな~と忠告を何度も受けたことがあります。

叱る理由には、意味が合ってそこにはちゃんと「愛情」という形がありました。これがあれば叱ってもいいと思います。少し痛い鉄拳や、耳を引っ張られた経験もいい思い出です。

逆に感情の赴くままに当たるのは、やらない方が得策です。相手を痛めつけるような暴力だったり、必要以上に心情を傷つけるような言葉は大人になっても消えません。

だから感情を抑えて、相手の事を考えた行動やお説教は、大切です。

子どもの頃の記憶に未だに悩まされています。僕は、過去に起きた苦痛に満ちた夢をみたり、叱責されると、過去の出来が膨大な記憶として襲いかかってきています。

僕は自閉症スペクトムという診断を大人になって受けました。子供の頃を振り返ると、成長していく中で受け止められない事がたくさん出てきました。いじめられたり、親からも醜い言葉を受けました。

落ちこぼれと絶対に向き合わなくてはいけない

落ちこぼれとは、学校の授業についていけない学生という定義。中途退学者や不登校から引きこもりになった人も含まれると思います。褒められる話ではないけど、僕はどれも経験しています。

多くの子どもたちが高校を中退しています。

平成26年度の同県内公立高校の中途退学者は1929人。全在学者に占める割合は1.5%で、平成18年度以降、減少し続けている。状況を見ると、▽1年生が全体の約半数を占める▽授業についていけない、学校生活への意欲が低いという理由が過半を占める▽中学生時代に不登校傾向でなかった生徒が約7割を占める――という特徴が浮かび上がった。

学業の不振や人間関係に課題 埼玉県が高校中退者調査

もう何年も変わらない。社会の仕組みがおかしい、子供の貧困と高校中退者数が社会問題として注目されてから何か変わった?自己責任もあるだろうけど、適切なケアがあれば学べる方もいただろう。

高校中退者の多くが貧困な家庭の出身者という真実。

平成23年の若者の意識に関する調査(高等学校中途退学者の意識に関する調査・内閣府)によれば、高校中退者の21.1%が母子家庭出身という結果が出ている。

シングルマザー家庭の支援にあの金融機関が立ち上がった

もし、何かしらの取り組みによって、中途退学者の数を半分に減らせたなら、人的・経済的損失も減るだろうし、より良い社会になりますよね。

政府が本気でやればできるんじゃないですか?今すぐにやるべきでしょう。

学歴がないスキルが不足している若い労働者は、劣悪で不安定な労働条件の下で、働いている人も多いと思います。賃金が低いとお金の問題に悩まされたり、うつなど精神的な不安定状態になったり、適切な社会的な保護を受けずに働いている人もいると思います。

ただ通学しているだけ、学ぶ意思が低い子は置き去りに

学びたい!そんな貪欲な意思を持った人は自分なりに努力していくでしょう。

それとは真逆に位置する学生は、考慮に入っていないのでは?

高校中途退学の予防や支援に力を入れるだけでなく、失礼な言い方になるけど、ただ通学しているだけで、真面目に取り組んでいない学生に実りある学生生活を提供していないように思えます。

支援という行為には一定のお金がかかりますが、学校がつまらないと思っている。何も学ぶ事がないと思っている。そうのように考えている子供たちがいたら、教育改善する必要があると、強く思ったのだ。

いろいろ、模索しているよ。教育を改善するための活動も活発に行われています。しかし、その方向性に疑問を抱きます。

学校の教育は教師による単なる労働になっていませんか?子供たちが席に座り、つまらない教科書を捲り、ただ記憶していく原始的な事務処理を行っている。授業が終了する時間まで席に座って、我慢するだけのもになっています。

僕はこれが精神的に苦痛だったし、もちろん、発達障害の特性で勉強が上手くこなせない事も影響していたと思いますが、授業が楽しくなかった。何一つワクワクするような感情はなかった。

そもそもクラスの中には、明るい子、優しい子、活発な子、多種多彩な要素を備えています。一人として、同じ人はいませんでした。同じ屋根の下に住む、親や兄弟、身近で親しい友人の中に似たような特性を持つ人はいるかもしれません。

それでも、人違いをするような事はないですよね?凄い似ている姉妹を見分けられないという事はないですよね?外見が似ていて「どっちだっけ?」そんな風に判断が難しくても会話をすることで、認識することができます。

今の社会は、多様な人たちがいるのに一つの枠にはめこむ教育が行われています。

世の中は何かと言えば自己責任、この言葉は嫌いです。問題を抱えている子供がいたら「社会が助けます!」そんな風に優しく手を差し伸べる仕組みになってほしいです。

学校の授業だけでは生きる力がつかない子がいる

学校が必要ない理由、小・中の義務教育は子どもに有害すぎでしょ

学校で起きた嫌なニュースや、教育が受けれない子供たちが未だに多くいる。何かが根本的に変わっていない。そんな気持ちで書いた記事です。

求められるのは、つまらない教科書というごくごく狭い領域の中で子供の能力を見極めるという事です。

教科書に書かれている基本的な知識は大切です。僕はなくせとは言ってません。そもそも反対する気もないです。国語や数学に重点を置きすぎではないでしょうか?

例えば人文科学、芸術、ITなど幅広い知見に触れてもいいんじゃないかなと。物凄く運動能力が高い子がいるならば、体育に重きを置くべきだと思うんです。その子が怪我したら、重傷を負って能力が低下したら、能力が偏り過ぎる?そのような疑問も湧くと思います。

だから大人が考えて、別のアプローチをとる必要があります。

僕が小学校を頻繁に抜け出した理由のひとつ

僕が小学1年生の時から高1まで授業中に抜け出そうとしたり、休み時間に校外へ逃走した事を思い出すと、落ち着きなく動きまわり、注意散漫、衝動的な行動に見えます。

注意欠陥 多動性障害、集中力がない事からADHD診断がついた可能性があったでしょう。実際に自閉症スペトラムという診断を受けているんですが、それだけが原因ではないと思います。

ぶっちゃけると、授業がつまらなかった。

席に着くと重い鎖が体中に巻かれた感覚の中で、何時間も座って退屈な授業を受けていました。

自分に向いていない作業をを黙々とこなし、それが毎日のように続くと「あ~抜け出したい」そんな思いに駆られ、そわそわし始めることは不思議ですか?

あの頃の僕にpcを与えて、授業を受けさせていたら、また興味を引き付けるような教育システムがあったら、と考えました。

だから広い意味で様々な才能を開花させるような「カリキュラム」や取り組んでほしい。また「偏りを生まない」限定したことをやらないでほしい。

学びがないところに通う意味はない

本当に、時間の無駄です。7歳の僕に選択肢が多ければ違った人生になっていたでしょう。例えば、幅広い科目を選べることができるとか、教師を選べるという事ができるなど。あまりにも狭い選択ししかないって悲しい事です。

本来、教えるというのはクリエイティブな仕事です。

ただ教科書を読み上げて、答えを導き出すことなんて、僕にもできます。

「こいつはダメだパス」「頑張ったけど私には無理」その繰り返しで僕は教師に振り回されていました。

教師に感銘を受けるほど刺激された事もないですし、何かしら能力を引き出された事もないです。何一つ導かれることもなく、ただ毎日、単なる情報を無理やりインプットするだけでした。

教師たちが学びを促すことがなく、テストで満点に近い結果を残すように重点を置いています。

僕は読み書きに難があり、人より学ぶ力は弱く時間が限られるテストでは、良い成績が出せません。だから僕の様に困難を抱えていたり、苦手な子にとって皆と同じ基準のテストは苦痛だと思うんです。

夜遅くまで必死になって、頑張ってもテスト赤点だらけでした。この状態が続くと、学ぶことが嫌になってきます。テストは学びを助けるモノではなく、教育を妨げるものに変わります。

決められた通りの答えが出せない。答えが合っているのにやり方が間違っている。その通りでないと、ダメだ!

常に大きな「型」にハマった状態を求められていました。

「この子はこの課題が苦手」でも「これは捉え方が違う。人素晴らしい考えがある」と、その部分を伸ばす事が教育ではないでしょうか?現実は決められた凸凹の枠にハマるようように無理やり調節したり、枠に収まらないからうやむやに見逃されたりするんだろうな思います。

長く生きていると、さまざまなモノを壊しながら、時にはゆっくり進みながらいろいろ部分を作り変えてきました。だから誰にでも備わっている思考や判断をフル活用することで、世の中に新しい商品が生まれたり、多様なサブカルチャーが生まれています。

複雑性の塊のような人間に皆と同じような物事の捉え方や、対応、学びが絶対に必要だとは思いません。

他の可能性に目を向けないことが、学びならそれは無自覚に落とし穴に墜ちている状態です。

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