僕の引きこもりの経緯と原因

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僕は尊敬されない人生を送ってきた。以前より多少マシになったが、相変わらずでこぼこの道を歩き続けていようだ。

僕にとって引きこもりという言葉は、事象であり、なかなか抜け出せない境界線なんです。

正直、僕が引きこもりになった原因はよくわからない。理解していることは、必死になってもこの社会と呼ばれる世界では生きづらいことだけ。一生懸命に目を凝らしたけれど、もう霧しか見えなかった。足元すら見えないので、転んで、傷ついて、助けを求めて必死に手を伸ばしたけど、誰も手を掴むことはなかった。

やがて、時が過ぎ去り、状況は悪くなった。

一時的に引きこもり状態を抜け出してもすぐに同じ暮らしを繰り返す。心身的に疲弊しても、1~2週間休める環境ではないので、仕事を辞めてしまう。引きこもり続ける男性、ただそれだけ・・。

よそ者らしい

僕は普通に家族と暮らしていたと思います。母子家庭で、実家暮らし、妹が一人います。

一緒においしくないご飯を食べ、間借りした六畳一間で一緒に眠った。正直、一緒に生きていたとは今でも感じない。本当に家族らしいが、よそ者のように扱いを受けたように記憶しています。今思えばひとり、一人生活を維持しようと、必死だったと思う。

実際に厄介なお荷物として、周りを悩ます存在になった。

学校には、無理やり通わされていた。朝、母に手をつながれて校門の前まで引っ張られて連れていかれた。小学三年生の頃まで続いた。とりあえず、形だけは学校に通っていたが、休憩時間に頻繁に抜け出したり、登校した振りをして、近所の公園で時間を潰していた。母は毎日のように二日酔いなので、お家にすぐ帰ることはできなかった。

もちろん、すぐに先生からお家に連絡がいき「僕が来ていない、いなくなった」事がばれてしまいます。中学、高校になっても変わりはしなかった。その場から逃げ出した衝動はとても言葉では表せない。

夕方が近づくと、帰宅の岐路につくが、玄関先では母が待っており、固いコンクリートの上で正座させられ、お決まりの「なんで学校に行かないのか?」とクドクドしい叱責が始まり、僕は黙ったまま暗くなるまで反省させられて、翌日も同じことを繰り返していた。

授業中は、黒板を見つめることなく、机に寝そべり時間が過ぎるのを待つだけでした。先生に何度も注意されるが、僕は相変わらず、下を見たまま返事を返すことはなかった。教員用の個室、教頭室にお呼ばれして、話し合いの場を設けてもらっても黙ったままだった。毎年の恒例行事のように意味のない、一方的な語り合いが行われていた事を覚えています。

「こいつったら、今日もバカなことをやっている、同じことを繰り返して呆れて」希望は虚しさの中に消えて、悪夢に変わるのさ。僕を見る目は冷たく光っている、肉を求める野獣のように怒りに満ちていたり、またもうこいつは「いいや」という眼差しも記憶に焼き付いています。

鶏小屋に押し込められた居場所がないと嘆く、醜いアヒルの子だったから、仕方がない。

あの時の僕に起きていた事とは?

■毎日お腹が痛かった(今も一日5・6回はトイレにこもっている)

■周りと比べると、何かが違うという感覚が襲う。

■いつも強い緊張を抱えていた。

■周りとなじむ事がつらすぎた。

頻繁に起きる事象と元から持っていたもの。

■背中のあたりが痛くなり、息が苦しくなる(横になれば楽になるものではない)

■なんがか、体中の血液が鉛になったみたいに体が重い。

■聞こえにくい

■話しづらい

■読みづらい・見えづらい

時代は90年代、頻繁に体が痛いという僕を病院に連れていき、様々な検査を受けても異常がない。あいつは学校をサボる言い訳に使っていると、思われていた。もう自分の中にそれを抱え黙り込んでしまうだけになった。

あれから20年後に発達障害という診断を受けて、なんとなく理由が分かった。脳が起こす機能障害が原因だという事を理解した。イヤ、全てをこれに擦り付けていいのだろうか?そんな気持ちもどこかにある。

数日間、数週間、数か月、数年、引きこもる

お家の中にひきこもって、快適だったかと、聞かれたらとても困ります。一日中お家に何日もいたら、家族が口うるさく「ほら、さっさと学校いけやな!」ブチギレられて、僕はなくなく重い体を引きずりながら、通学路を歩き学ぶ意欲もない状態で、教室に入る。殴られるより、言葉の暴力に恐怖を感じていました。

皆と同じでないと、怒られるのです。だから、どんなに精神的・肉体的につらくても頑張って通った。

しかし、本当にきついと、人は動かなくなる。

汚い話だが、パンツとシーツを汚物で汚すほどに立ち上がる気力すらなくす。扉の向こう側では、家族たちがいい香りのご飯をほおばりながら、僕の事を卑下していた。最初は、ご飯を食べなさいと言われるが、日が進むうちに「働かざる者食うべからず」などきついお言葉を浴びせられ、食事をする事に申し訳なさを感じて、食べる事すらできなくなっていた。

ふっふふと笑い声が聞こえていたが、そこに僕はいなかった。ベットの中にいるのに体が震えるほど寒かった。

少し気力が戻ると、荒い息を吐いてぬらりくらりと学校へ赴くが、誰も僕の状況を理解する人はなく、ゾンビみたいに生気がないまま通っていた。もう理由も何もあったものじゃない。学校や、お家でも安らげない。それでもなんとなく生きてきました。

ひょっとしたらこの胸のモヤモヤが消えて、外から受ける衝動に苦しめられることがなくなるかもしれないかと、僕は毎日期待した。絶望的な期待だったけど、それだけが生きる糧になっていたと思います。生きることをあきらめられない。

中学生になる頃には、自室を持てるようになった。

体調が悪く数日の間、引きこもっている部屋はジメジメした地下室みたく暗く、光を遮断するようにカーテンを閉め切り心が壊れないようにしていた。

僕はしばらく、起き上がれず、冷たい床にいる時もあった。ベットがカビ臭く息を詰まらせることがあったからだ。僕は空想の中の人達の姿を想像して、時間をつぶした。唯一優しかった先生、3歳まだ幸せだった記憶の中にある両親、大好きだった父方の祖母と祖父だ。

そして、長々と一方的に話しかけながら、床に流れる涙を拭きとり、次いでに部屋を掃除する事があった。そうでもしないと、心が壊れて僕じゃなくなるような気がした。

でもなんで「僕のままではダメなのか?」と、文句を言った。どうして誰も助けに来てくれないのかと訴えた。そして、いつも最後は神様に向かってこう叫んだ。
「助けて下さい!早く来て、もう疲れたって」

実際、助けが来ることがあった。

20歳ぐらいの時に仕事をやめて、また引きこもっていた時期に母方の弟がお盆時期に訪ねてきて、瀕死状態の僕を連れ出してくれたのだ。暑い夏の時期に締め切ったお部屋の中で、餓死寸前だったらしく、まともに歩くことができなかったらしい。僕にはその時の記憶がほとんどない。

自我が戻った時には体中アザだらけだった。沢山転倒した証拠だと分かったけど、なんだか痛くなかった。そして、なんだか・・毎日のように文句を言っていた家族が気味が悪くなるほど優しくなっていた。

でも人はいつもでも優しくはなくあっという間に元に戻る。そして、ああ、死にかけても何も変わらないのかと、自分の情けなさに落ち込んでしまう。皆はわけがわからなかったことだろう。そして、あれから8年近く、短い時間が流れてこうして、自分自身を振り返っている。

「あの時、この世からいなくなっていれば」そう叫ばずにはいられない。

この世界に救いを求めて、行動しても報われない。どこに行っても暴力に悩まされているのだとはどうしても言えなかった。また聞こえにくい、話しづらい、読みづらい・見えづらいと誰にも相談する事ができなかった。

だから、引きこもったと思う。おかしい自分を隠して、困難な事を無理してやったりした。

今はとりあえず、元気だ。

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