学校が必要ない理由、小・中の義務教育は子どもに有害すぎでしょ

スポンサーリンク

5f02af705983f86732026

常に理不尽さが、僕の背中に爪を立てて傷つける。「何故自分は人と違うのだろう?」と疑問を持ち続け、寝る時も、朝目覚めた後も泣いていた。僕が物心つく頃にはあれ~何か「人と違う」と感じながら生きてきました。

不登校から引きこもりへ移行して、社会から閉ざされた空間で、数十年と時間をただ浪費していく中で、自分が発達障害を持っているのだ、ということを意識し始めました。ある日、引きこもり生活に疲れて、第三者の支援を通して社会復帰を目指していくんですが、社会福祉を利用していく過程で、僕の内側(脳)が現代社会に上手く適用できない(装うことはできる)けど困難が多々あることが分かりました。

そして、子ども・若者総合相談センターの紹介を通して専門医を紹介してもらい「自閉症スペクトラム」の診断が下りました。

医師もなんだか曖昧で「孤立型」「発達障害」というキーワードを連発し、その辺の傾向があるんだと言っていましたね。内心へぇ~と、どこか他人事のように感じました。

自分が人生で経験する苦難自体は、社会生活を営む上で困難は確かにあるけど、受け入れなければ生きていけないし、工夫しながら騙しだまし前を向いて歩いていかなければ虚しさだけが残ります。例えば十年後の僕と今の自分自身が何ひとつも変わってない。そんな僕を想像すると、泣けてきますし、悔しさがこみ上げると思います。

僕が28歳の頃に発達障害という診断を受けたんですが、昔の教育システムが現代のようにある程度進んでいれば引きこもることなく、ワーキングプア状態になっていなかったかもしれない。

なぜ親は子供を学校まで送り出すのでしょうか?

僕は理解しようとしても理解できない事柄のひとつに学校に行くという事がありました。学校に通う事が嫌なのにイヤなのに朝になると、母親が泣きじゃくる僕を引きずって送り出していました。母から聞いた話では幼稚園の頃から小学三年生までこんな感じで毎日のようにだだをこねていたそうです。

自我が芽生えてくる年頃になってくると、周りの目が気になりだしたり、恥ずかしいから一人で通うようになっていましたが、幼児期の様に理由は分からないけど、得体のしれない恐怖だけがありました。

そんな僕は、学校に通わずに自宅で学習することもできたはずです。

親御さんも学校は安全、安心して預ける事が出来る場所だという事も関係しているでしょう。小中学校の義務教育は9年間のカリキュラムは最低限の文化レベルを身に着けるだけでなく、高い社会的地位につなげる場所でもあります。

そして現代の学校教育は?

ほとんどの子どもたちにとって学校は必要ない

共働きが多いご時世、働く親にしてみれば子供を学校まで送り出す事が当たり前であり、8、7時間の間「こども」を預けられる便利な場所です。僕は、小さいながら、衣食住を支えるために仕方のない事だとは理解していました。

それでも僕は学校という存在は不必要だったと認識しています。自分の子供に負担を押し付けているように感じたからです。あの頃の僕は心休まることがない空間に置き去りにされたと思っていました。

机に寝そべって時間が過ぎるのはただ待つだけの日々を送っていく中で、ほとんどの子どもたちは勉強なんてつまらないのだろうと感じました。「キーンコーンカーンコーン」その音が鳴り止むと、僕は少し安らげを得て恐怖が和らぎました。休み時間になり、周りを見渡した時に席に座っている人はほとんどいなかった。子供同士でお喋りしたり、お友達と遊びに運動場に繰り出していました。

小学校低学年にギスギスした人間関係がない理由なんだろうな。

また「キーンコーンカーンコーン」鳴り、授業が始まり、そして子供の快適な時間が失われていきます。時間を過ぎて遊んでいたら、強制的に教室に連れていかれましたよね。

僕は幼いながら、授業に耐えきれずに頻繁に学校の敷地内を抜け出し、近所をあちこっち駆け巡っていました。これが恐怖から抜け出す自然な行動だったと考えています。机に伏せながら、毎日のように泣きじゃくっていたことを今でも鮮明に記憶しています。それぐらい、僕にとって学校は苦痛でしかなかった。

一つ一つの記憶に触れてみて思う事は、学校はすべての意味を失う場所だったという事です。

学校の子供たちにとって広い意味の「学び」は少ない

学校は子供に知識や、教育を提供してくれる有難い場所です。当たり前ですが、計算式や読み書きを学ぶために学校に行きます。しかし、学校で学んだ事の大半は大人になって仕事上活用することがほとんどありません。学校の基本的なカリキュラムのほとんどは、答えを記憶することに焦点を置いています。

学校の勉強に数百時間、数千時間という時間を要してやってきたことに疑問を感じることができますか?

退屈なカリキュラムは何十年も変わっていない。子供たちが本当に必要とするような学校の科目はあるのだろうか。実際に過去数年にわたり、代わり映えのない奇妙なシステムです。学習では、ただじっと座っているし、学ぶことの面白さは分からないし、何かに耳を傾けることを余儀なくされているように感じるのは僕だけ?

学習面で感動を覚えたり、疑問を感じたり、推論する機会もなかったと言えばウソになるけど、あまりなかった。学校のつまらない授業を受けて帰宅したら宿題をこなす事で、よい大学に入学するための知識を十分に得られます。世の中の先輩方や、親たちの経験から学歴といった物質的な価値を説かれた経験上、学ぶ大切は十分に理解しています。

学校の授業が大切なら家庭教師を雇って100時間、勉強するだけでも十分なのです。賢くなる為に学校に行く必要はなく、今ではプログラミング言語の基本を無料で学ぶ事が出来たり、オンライン教育システムを利用て年齢に関係なく学びたいことを学習することもできます。

そして、現代は学校の代わりに何かを見つけることができます。

日本の公教育の始まり自体が、皆が同じように学び、理解するようにカスタマイズしている。オーダーメイド的教育が普及しないかがり、僕のようなポンコツは生きる力を失っていくのです。

まるっきり、合わない「学校」という空間に数年間、半強制的に押し込められている間に、僕はいまだ消せない記憶と、傷に悩まされ続けています。

だから個人的には、心から教育というシステムを見直して、一刻も早くオーダーメイド化してほしいと思っています。

学校は子どもの社会化を育む場ではないように思う

社会化とは?トラウマのサバイバーである僕に一番苦手な部分だと自覚している言葉です。社会という檻の中にある決まったパターンがあり、その枠からはみ出るとボコボコにされます。

社会化(しゃかいか)とは、社会学の用語で、子供や、その社会の新規参入者が、その社会の文化、特に価値と規範を身に付けることを指す。

引用先:(ウィキペディア)

そもそも何を指して社会で成功したと、考えることができますか?

一流校を出て、優秀な成績をあげる。または競争原則にうち勝ち、しっかりお金儲けする。それだけで、社会的成功者だと信じていますか?世の中には尊敬に値するほど、効率的に仕事をこなし、あり得ないほどにお金を稼いでいる人達がいる一方、貧困以下で労働する人々もいます。

皆さん同じように学校に通って、学んでいるはずなのに・・。

経営者、有名人、公人、著名な人物、スポーツ選手、芸術家、作家。

これらの人々は、次元が違うと、一言で片づけて終わらすことができますが、少し考えてみたいと思います。

それぞれ違う土壌に立っている人達なんですが、目標を達成する能力がずば抜けて高い。例えば思考の質や早さだったり、ブレない意志力。最後までやり遂げる忍耐。結果を生み出すためのプロセスに妥協することなく、物事を達成するために血がにじむ多くの努力を欠かさない人達です。

トップ経営者や、一流と言われるスポーツ選手の本を読んだことがある人は分かると思います。

彼らは弱音を吐くことがあっても何事も途中で投げ出さない方法を知っています。スポーツ選手でも優れたコミュニケーションスキルが必要です。個人的に野球選手の川崎宗則さんが好きなんですが、彼を見ているとトンデモなく、人々の心を掴み取る社会的コミュニケーションが身についています。

何かを決める時でも胸のうちの意思決定を行い、思うだけでなく直ちに実行していきます。困難な出来事が起きても立ち向かい。逃げない人達なので、ストレス耐性に強い人たちなんだと思うんです。苦しい場面でも逆境を乗り越えることができる事って凄いですよね。

また観察力、直観、判断力、それらを瞬時に選択を行い。自分の行いに対して、しっかり責任を取る能力があると僕は思うんです。ときに仕事に力強く取り組む誠実な熱意だけでなく、社会貢献に積極的な姿勢を感じ取ることもありました。

だから「自分は自分で育てる」という、考えが必要です。師匠、コーチ、先生などあなたの力を引き出しような人達から学ぶところを見習った方がいいよ。

学校は何を教える事ができるのか?

つまらない日常に学校という牢獄があった。そこには、学生が選択できない項目が無数にあり、毎回のように決められた席に座り、情熱を感じないただ教科書を読み上げる機械音と、黒板を写し書きする日々がそこにあった。

ただ与えられた知識を詰め込むだけの勉強する場所である。興味がある事を優先したり、積極的に学びたい事を学ぶ場所ではない。それが学校だ。やりたいことを心深くに押し込んで時間を過ごすだけだった。

僕はベルが鳴った途端に次の授業に向かうことなく、頻繁に学校の門から出て外の世界にくりだしていました。つまらない授業をあきらめなければなりません。

このように僕は十数年という長い期間、憂鬱な時間を過ごしていました。

誰のための教育なんだろうか、これらの問題について向き合う人はどれだけいるのだろうか?

■人それぞれ思考するスピードが違うから皆さん一緒に基本を身に着けよう?

■時代遅れの非効率的な方法を繰り返して訓練すると?

■機械みたいな教師から学び、知的依存しなければならない?

■つまらない教室で頭がいい学生を置き去りにお勉強?

■頭が弱い学生を置き去りに次に進むの?

どこにあるのかな~意志力?対応力?古臭いシステムは、子供を従順作るためにあらゆる努力をします。子供は従順であるべきなのでしょうか?僕が小さい頃は「気持ち悪いぐらい皆同じようにしないといけなかった。」枠から外れると叱責されていまた。そもそもこれって、大人になって社会で成功するために必要とされる実践的な知恵のですか?

学校だけでは質の高い仕事を生み出すことはありません。クラスに教科書の内容を理解していなかった、そんなクラスメートが何人かいました。授業で理解できていないところがあるのに次に進むっておかしくないですか?基本的な考え方が分からなければ応用することも難しいというより、策定することができません。

ちなみに僕のIQは70以下で、学校では勉強についていけず、成績はひどいを通り越して絶望するほどです。塾にも通っていましたが、成績は全く変わらず、ダメダメ状態でした。理由は明確でテストの時間が一時間と限られていた事や、字が汚い、文字が入れ替わるという学習障害的な要素が影響していたからです。他にも理由はあるけど、いずれ書くので今回は割愛します。

それでは、誰の責任ですか?学生の努力不足?それもあるかもしれないけど、根本的な部分に触れると、そもそも学生に選択が与えられていないという点が問題なんだろうと思うんです。

誰かと十分に交渉したり、頭の中で考えていることを人前で話すような機会があったりしましたか?直感でこれがいいな~と思うような選択肢ってありましたか?直感で「好き」と思うものを選ぶことすらできない。人間は傷ついたり、悩んだりして成長していくけど、感性の開発みたいなのってありましたかね。僕の場合は、いじめられて感性というものが磨かれたように感じますが、違う形で学びたかったです。

これらは、一般的に学校のカリキュラムにないです。

鮮明と覚えている記憶を辿ると、嫌いだった先生が言った一言があります。「あいつはダメだ」「あいつみたいにバカになるぞ」その言葉は周りに伝染していき偏見と感情的な依存を与えます。

僕は「なぜ学校を途中で抜け出すのか」「授業中に眠るのか」自分の意見を表現する権利はありません。ただ怒られるばかりだったのです。

成人になれば、沢山の選択肢があります。今の子供たちはどうでしょうか?

僕は学校という、恐怖だけが付きまとう窮屈な箱のなかに押し込まれられなければ、今より幸せだったかもしれない。しかし、これまでの人生を全否定はしなくない。だって、この経験がなければこの記事は書いていないのだから。そして、学校の問題について向き合う、そして、改善すること。それを願うだけでなく声に出して、取り組んでいきたいです。

Pocket

スポンサーリンク

SNSでもご購読できます。

コメント

  1. 名無しさん より:

    義務教育制度は断固廃止すべきです。只で冴え、日本国の財政が悪化しているのに義務教育制度は意味がありません。義務教育制度は贅沢です。少子化は素晴らしい事です。義務教育制度は公費(税金・借金等)の無駄遣いです。読み書き算盤は御法度です。資格・免許取得者も飽和状態です。日本国は労働力人口も飽和状態です。

コメントを残す

*

CAPTCHA